は幾分体質が変わってきたのかもしれんけど、以前の証券会社は、本当に真っ当な会社なのか?と思うほどにヤクザな体質だったらしい。それが頂点に達したのは、言うまでもなくあのバブル経済の時。師匠に指導を受けるようになって、週に2日ないし3日の後場に師匠の自宅に通っていた頃、俺はバブルの時の様子をいろいろ聞いたんだよ。あの当時、師匠はN村でリテールの一部署をまかされたバリバリの証券屋だったそう・・・。なので、バカみたいな面白い話に事欠かなかったよ。
62795f596cb2cb25fed85a8c7c56ef22
(バブル当時、一万円札は便所の紙にもなりゃしねぇ・・・と言われてた!)

あの頃、1985年のプラザ合意で急激に円高(¥250→¥150)になって、挙句に日米貿易摩擦が本格化してきて、米国の自動車メーカーの社員達がドデカイハンマーで日本車を叩き潰す映像が毎日のように流されていた。これだけの円高に見舞われたら、日本の輸出産業、国内産業は本当に悲惨な状況で、石油ショックの時もそうだが、リーマンショックよりも深刻な状況だったと晩年の師匠は言ってたな。

だが、中曽根首相はレーガン大統領から強烈な圧力をかけられて「日米貿易摩擦解消」「内需拡大」国際公約した。日本も大不況だったが、ベトナム戦争以来米国もまた深刻な出口の見えない不況にあえいでいたんだよ。だからプラザ合意を強引に飲まされ、その後日銀の公定歩合を急激に低下させることで(最終的には2.5%)高止まりしていた金利は一気に緩み、不動産投資へと資金がなだれ込んだわけだよ。実際、一般企業よりももっと深刻だったのは金融だったと師匠も言っていたが、大手銀行などは粉飾に近い会計処理で息を繋いでいたほど。もちろん、N村とて飛ばし連発でなんとかやってたと師匠は言ってたな。

さて、それが空前の不動産投資ブームに火を付けた。その原因はもう間違いなく金融機関の見境のない融資にあったと師匠は言ってた。いろいろ原因を取り沙汰されているが、そんなもの全部「嘘」で、いい加減な融資を連発していた金融機関の責任が9割だろう!と。なにせ不動産担保主義全盛だったからな(今でも生きてるけど 苦笑)

バブルが始まって1987年も中盤になってくると、バブルを当て込んだ商売が開業ラッシュ!青菜に塩だった自動車業界も、あの日産のシーマが日本車最高値(500万円台)で発売された頃、BMWは六本木のカローラって言われてたしな。シーマなんか急きょでっち上げた高級車で当時はターボを付けてドッカンすれば高級車になったからな(苦笑)
topics1990
(立会というのはここから来てる!)

その頃、N村でも急激に上昇する株価が社会現象になってた時代で、もちろんネット取引などはなかったから、相対注文、電話注文、そして委託運用を個別で契約したり、とんでもない時代に突入してたと師匠は言ってた。

証券の営業マンは、それこそ個人顧客の相対注文などやってられなくて、ほとんど全員が不動産やら企業経営者まわり。そして時にはちょっと怖い筋からの注文も受けてたと。師匠曰く
「カネには名前もなければ色もないから、どんなカネなのかまったくわからなかった」と。

あるとき師匠の部署に電話が入って「株式投資をしたいので来てほしい」と依頼があった。ちょうどその時部署の営業マンが出払ってて仕方なく師匠が出向いたら、銀座のとあるビルの一室の「(某企業の)オーナー室」に通され、そこにアルミ製ケースが30個近く並べられていたと。
「株式投資をしたいけどいろいろ面倒なので、これを持って行って欲しい」
と言われたそうな。当然師匠も中身はキャッシュだろうと分かったが念のために聞くと、
「午前中に不動産取引があってその代金」
と言うことだった。全部で62億あったそうな・・・・(苦笑)
流石に師匠も社用車(セダン)で来ていたので会社に連絡して契約の警備保障を依頼して預かったということだが、その出所はどうやらイ・アイ・イという不動産ディベらしかったと・・・。

それで結構度肝を抜かれたと言ってたけど、実はそんなのは半年もしないうちに日常茶飯になってしまったと。「10億、20億はカネには見えなかった」と師匠は言ってたよ。それで運用委託契約をしてその62億は1年で180億以上になったが、その顧客はパフォーマンスは悪いと言って全額を引き挙げたそう・・・(苦笑)
「N村さんなら最低10倍にはしてくれると思ってた」
を嫌みたっぷりに言われたと師匠は苦笑いしてた。
だが実際、不動産投資なら2,3度転がせば600億になった時代でもあったらしいから恐ろしいよ。

そういう時代を約4年くらい経験して、バブルは一気に崩壊したと。けれど恐ろしいことは、バブル経済は崩壊して、相場は天井打ちが明確なのにも関わらず、大多数の投資家はそれを押し目と思ってたってことだ。だから、普通バブル崩壊したくらいなら、逃げれば済む。けれど、逃げてもまた損失分を取り返そうと思って再度買い向かってくる。このことが、投資家の傷を決定的にしたと師匠は言ってたよ。

なので、証券会社は相場が天井打ちで緩んでも手数料収益は落ちなかったと。バブル崩壊後3年くらいは高水準だった。だからこそ、7年後に山一は倒産してるわけだよ。けれどもその時、師匠の立場では、「損するのが100%分かっていて顧客に再投資を勧め続けてることに嫌気が差した」と言っていた。株式投資なんて本来投資家を儲けさせるためにやらなきゃいけないのに、会社の方針でとことん、投資家に損させることが業務目標になってたわけだ。それであるとき、師匠曰く・・・
「上司に辞表をブン投げて辞めてきた」と。
本当に上司二人の顔をめがけて辞表をぶつけたらしいよ(苦笑)
「このままじゃ、会社潰すか命落とすよ!」と捨て台詞を残して辞めてきたと。案の定、N村もまた山一が逝ったとき、破綻寸前だった。

その時代、筋モノが会社に怒鳴りこんだり、役員室に立てこもったり、毎日のように脅迫電話がかかってきたり・・・師匠も相当に精神的に参ってたといってたよ。N村でも何人も自殺者が出たけど、それも本当に自殺かどうかわからんと師匠は言ってた。

ある意味、激動の時代を生きた師匠の話はどれも、本当に面白かったし、俺も何日でも続けてずっと話を聞いていたかった。そこには証券業界というか相場の逸話や伝説めいた話がごろごろしてたしな。偶然にも師匠は俺の親父の知り合いでもあった麻布自動車の渡辺喜太郎氏とも知り合いだったことで、俺は親近感を持ってたしな。なのであの小糸製作所の仕手戦も駆け出しとして知ってたらしいしな。

「俺なんか命があってみっけもの」と師匠は言ってたな。「この人1年で半分以上帰らなかったし・・・」と奥さん。
「ば~か、女じゃねぇぞ!仕事だぞ」
「どうかしらねぇ・・・」
師匠の奥さんは、本当に人格者なんだよな。そういえばこの方も独居老人なんだよなぁ・・・。
  ----------------------------------------------------------------------------------  
株太郎が選んだ日本株短期投資のバイブル。お陰さまで続々ご入会いただいてます。小型株で痛い目にあったら・・・スタイルを変えましょう。俺も昨年からスタイル転換してます!
  【相場師朗】 7step株式投資メソッド
----------------------------------------------------------------------------------

小型株は銘柄選択がすべて。買いオンリーの信用銘柄は動けば大きく獲れる可能性大。けれどどの銘柄が動くの?それが唯一最大の問題だから・・・
《完全無料》即金投資【株ドカン】お宝銘柄配信

絶好調!日々激闘のメインブログ!
【株・修羅の道】